地獄の釜のふたが開く

地獄の釜のふたが開く、こんなことを体験していたり理解する人も少なくなって来ました。
私は東京都杉並区上高井戸の甲州街道の道筋にあった新川工務店という大工の棟梁の家に大工の見習丁稚小僧として住み込んだのは15歳の頃であった。
東京でも珍しい大雪が降った4月の初旬、私の祖父も大工さんであったが、おばあちゃんの配慮で甘えの許されない見ず知らずの他人様の元で修行をする事を諭され、15歳の私の意志で大工訓練校の紹介先を選び祖母に連れられて尋ね、その日から20歳までを大工修行の年期期間と定められ住み込んだのです。
今も大切に保管している、ニュウギニアで戦死した父の形見、厚紙でつられたトランクに下着をいれて母が涙ながらに持たせてくれた古いトランクが旅達時のたった一つの財産であった。
・地獄の釜のふたが開くのは年に2回、お盆の時とお正月のそれぞれ3日ほどが年季奉公をしている者達が暇をもらい、ふる里に帰ることが許される唯一の楽しみであった。
5年の修行を終え1年間のお礼奉公(1人前に育ててくれたお礼に無給でさらに1年間働くこと)を済ませ、晴れて1人前の職人と認められることができたのである。
高校へ行くことが夢であったが貧乏家庭がゆえに選んだ口減らし、年季奉公の年期が開け少しは手元にあるお金で新宿にある工学院大学附属高校の夜間部の入学金を納め夜間高校生になれたのは21才の4月です。
念願な高校通学も無理がたたり骸骨のような身体になり3年で挫折、ふる里に戻り体調を整え東京オリンピックの翌年に再起をかけふる里を離れ武者修行、周囲の善意の皆様に支えられ今日に至っています、最後に草鞋を脱いだのが茅ヶ崎である。