悲惨!書く気になれなかった東日本大震災見聞録

東北道が開通した4月5日助手に子の雄介を連れ応急危険度腕章と認定手帳、大工道具をリュックにつめ東京駅から仙台行き深夜バスに乗ったのは23時55分であった。
既に震災より3週間が過ぎていることもあり16年前の阪神大震災時とは違い周囲の人達も落ち着きを取り戻したのかバスの中に悲壮感は感じられなかったが深夜でもあり車中の明かりは消され否応なしに睡眠バージョンに入っていった。
途中2回のトイレ休憩をはさみ早朝6時に仙台駅前に到着、深夜バスの乗客はそれぞれの目的地へと向かって駅中へと消えていった。
我々の目的は被災地での建築大工のボランテェアであるが情報不足もあり勇み足となってしまったようで持参した大工道具や金物類は無用の長物となってしまった。
気持ちを切り替え二人して持参のにぎりめしをほおばりながら対策を考え、結果として車をチャーターし震災津波被害による建物流出原因調査、写真撮影等を試みる事となり仙台から、陸前高田市、石巻市、東松島、女川町等を調査できたが橋の落ちた気仙沼へは入る事は断念させられた。
あまりの被害の大きさに我々個人で出来る限界を感じ、唯々傍観するだけの大震災ボランテァ行動であったが決して無駄な仙台行きではないのです。
津波にも負けない住まい作りのヒントもいくつか脳裏に写っていますが、今は少し被災地を顧みて気持ちが落ち着いてから未曾有の震災見聞録をまとめさせて頂こうと思う。