能登の地震調査で思い出したこと

天災は突然やって来る、同じ天災でも台風等はその前兆がありなにがしの心の準備、対策の時を稼ぐことが出来るが、地震予知は未だ完全な段階ではないのでいつも不安を抱えていなければならない。
阪神淡路大震災発生は群馬県の岩倉スキー場の宿で知り震災建物の被害状況を判定する応急危険度判定士が不足しているとの情報を得てスキー場を後に会社に戻り準備を整え判定士を待つ神戸に滞在し被災者が自宅に戻れるよう調査判定を行ったのでした。
新潟中越地震時は会議で東京に滞在中であったのでインターネットで新潟県の建築士会と連絡を取り十日町、堀之内、小地谷と被災地の調査判定を助手に愛妻を連れ手分けして行った、再度発生した新潟県中越沖大震災には大工職修行の息子英樹と兄弟弟子の古屋大工さんを連れ、原子力発電所のある刈羽村、柏崎方面の被災建物の応急修理を行いつつ見聞を広めさせた。
能登大震災時はタイミング悪く地震発生から10日ほどたってからやっと時間がとれ、妻を助手に金沢空港から被災地門前、穴水と倒壊した建物の倒壊原因調査を目的に飛び回った。
最後の夜は日本一のおもてなし?の宿と提唱されている加賀屋に宿泊したが、加賀屋の中は被災地以上に危険がいっぱいであった、薄暗い狭い通路に沿った池に柵もなく突然途切れた通路から妻は転落、大けがをし宿の車で病院へ運びこまれた、ホテルの施設内の不備な通路の事故にも関わらず宿からの詫びもなく、苦痛で苦しむ妻を連れ早々に宿を出て能登空港から帰路についた。
昨日の新聞に加賀屋のおもてなしは日本一と書かれていたが私の体験した能登の加賀屋さんの経営者陣のおもてなしの認識は表面の派手さとは大違い残念ながら最低と思わざるをえない。
私の宿泊している3流旅館であっても宿泊者が施設内でけがをしたとなれば最高責任者が先ずはお見舞いに駆けつけてくれる思うのであるが、後日苦言の手紙を送ったところお見舞い金として1万円が送りつけられ、ますます3流ホテル経営陣のいる日本一の加賀屋さんの看板が泣いているとため息をついたことを昨日思い出したのである。